ボスニア・ヘルツェゴヴィナの基本情報
正式国名 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
首都 サラエヴォ
言語 ボスニア語・セルビア語・クロアチア語
通貨 コンベルティビルナ・マルカ
プラグ Cタイプ
ビザ 観光目的であれば3ヶ月以内の滞在は不要
寂しげで、暗い歴史を背負うボスニア・ヘルツェゴヴィナ。
観光している自分まで、悲哀の情がこみあげます。
一方で、お土産屋さんのグッズには、鮮やかな青と黄色のコントラストが印象的な国旗のデザインが多く使われています。
その明るく、そして強さを放つ国旗を見ていると、その悲しい気持ちを吹き飛ばしてくれそうな気がします。
モスタル
クロアチアのドゥブロヴニクからバスで4時間ほどかけてモスタルへ。
モスタルはボスニア語で「橋の守り人」という意味です。
モスタルには、美しい橋スターリ・モストがあるのです。
スターリ・モスト
オスマン朝がこの地を支配している、1566年に建てられたアーチ状の石橋です。
橋の下にそれを支える柱などが全くありません。
下を流れるネトレヴァ川、遠くの山々、そしてスターリ・モストはどれもとても美しく、見とれてしまいます。
しかし、スターリ・モストは1993年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の際に、セルビアの率いる軍に破壊されてしまいました。
今のスターリ・モストは2004年に復元されたものです。
復元と言っても、通行可能で、人々の日常生活に欠かせないものです。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの料理
ベゴバ・チョルバ
チキンと野菜のスープ。
オクラが入っているため、とろっとしています。
モスタルから鉄道の旅を再会します
2時間半ほど列車に揺られていると、列車はトンネルの中へと入っていきました。
そろそろサラエヴォに到着する時間だと思っていました。
そして、列車が長いトンネルから出たとき、そこは銀世界でした!
標高550mに位置するサラエヴォは、冬はとても寒いです。
さすが冬のオリンピック開催地です。
サラエヴォの見どころは暗い歴史にまつわるものばかり!?
ラティンスキー橋(ラテン橋)
1914年にオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルナンド皇太子夫妻がセルビア人青年に狙撃されました。
第1次世界大戦が始まるきっかけとなった、世界史上重要な出来事が起きた場所です。
フランツ・フェルナンド皇太子はハプスブルク家の皇位継承者でした。
サラエヴォ冬季五輪施設と墓地
今からおよそ30年前の1984年にサラエヴォで冬期オリンピックが開かれました。
その華やかなスポーツの祭典が行われた場所が、今はこの写真のようになっています。
これは、すべてお墓です。
過去と未来が悲しいまでに対照的です。
オリンピックも終わり、1991年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が起こりました。
残酷極まりない犯罪も多く、第二次世界大戦以降のヨーロッパでは最悪の紛争になりました。
3年間で20万人以上の人が亡くなりました。
墓石を見ると、そのお墓で眠っている人が何年に生まれて何年に亡くなったかが分かります。
「1991―1993」のように、幼くして亡くなった子供が非常に多かったのだと知りました。
それが紛争の無情さ・残酷さを物語っていました。
「自分たちの国をつくる」ための紛争だったようですが、国のために誰かの命が犠牲になってよいものでしょうか、たった一度の人生がついえてしまってよいのでしょうか…。
悲しい歴史が今もなお街全体に寂寥感を漂わせています。
その後は、有名な大通りに行きました。
サラエヴォのメインストリートは、紛争時にはスナイパー通りと呼ばれていました。
当時は、この道を歩くと、近くの建て物に潜んでいるセルビア軍のスナイパー(狙撃兵)が歩行者を無差別に射殺したのです。
それから職人街と言われるバシチャルシァなどを歩き回りました。
そこではボスニアのサッカーユニフォームなども売っていて、お土産屋を探すにはうってつけの場所です。
サラエヴォには2つの国がある!?
1991年に始まったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の際、国民はセルビア人と戦いました。
セルビア軍に包囲されたサラエヴォでは、多くの犠牲者が出ました。
1995年に紛争は終わりますが、セルビア人はこのサラエヴォにとどまりました。
そのため、サラエヴォは町の北側がボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦の領土ですが、南側はセルビア人共和国の領土となっています。
しかし、その境界線に壁があるわけでもなく、またその地域の往来にパスポートの提示も不要です。
旅をする人にとって不便なことがあると言えば、それぞれの側に長距離バスターミナルがあることです。
どちらも町の中心から離れているので、バスやトラムで行く必要あります。
バスターミナルを利用する場合は、置き引きなどに気を付けましょう。
私は、セルビア人共和国側のバスターミナルに行き、夜10時の夜行のバスでセルビアのベオグラードへ向かいました。
到着は翌朝5時でした。
それからマケドニアのスコピエ行きの鉄道に乗りました。
次のページ 「マケドニアの旅 -マザー・テレサはマケドニア人?-」へ